私は趣味で歴史に関する本をよく読んでいるのですが、そこで気になる記述を見つけました。平家物語によれば、安徳天皇は80代の天皇で8歳の時に八岐大蛇の霊剣である草薙剣を取り返したと書かれているのです。 安徳天皇は数え年で8歳で崩御していることは史実です。しかし安徳天皇は現在では81代ということになっているので、80代というのは誤りのように見えます。この矛盾について、その本の上では特に触れられていませんでした。 多くの人はここで止まってしまう気がするのですが、私はある程度日本史を勉強しているので、天皇の代の数え方は時代によって異なっていたという知識がありました。特に安徳天皇の後の南北朝時代で、この時代は南朝と北朝がそれぞれ正当性を主張して並立したため、そこのカウントが一番混乱しています。それについて少し紹介します。 天皇のカウント 南北朝時代の天皇のカウント 現在の天皇は北朝の子孫のため、基本的には北朝が正当とされてきたのですが、明治時代に南北朝正閏論という論争が起こり、現在では南朝が正当だったとされているので、そこでもカウントが大きく変わっています。現在でも皇居に楠木正成の像がありますが、南朝側だった楠木正成の像が北朝の子孫である現在の皇族が住んでいる皇居にある理由はここにあります。

久しぶりに旅をしてきました。今回は富山・新潟です。実は富山は母方の実家になるので用事があり、その後についでに回ってきました。 この辺りは観光地が多い地域ではないのですが、今回はゆっくり観光したかったのでちょうど良いということで行ってきました。 現在の富山・新潟辺りは古代では越の国と呼ばれ、元々日本の北限だと考えられていました。現在の東北地方は初代天皇という説もある崇神天皇も軍を送った話が残っていますが、日本の一部と考えられるようになるのはかなり後の時代のことです。大化改新の時代にも現在の新潟市辺りに渟足柵が作られたと考えられていますが、この渟足柵は東北地方を日本の一部にするための足がかりのような施設だったと考えられます。 新潟県の左端の糸魚川周囲は翡翠の神格化とされる沼河比売への信仰があります。この沼河比売は古事記によれば大国主命の妻なので出雲との関係もあり、また先代旧事本紀によれば沼河比売・大国主命の子供が諏訪大社の祭神でもある建御名方神とされています。つまり諏訪とも関係が深いと考えられます。これは出雲から対馬海流を通り能登半島まで行き、そこから新潟の姫川から遡り諏訪まで出る航路があったためと考えられています。