原典を見れることの重要性について(天皇の代の数え方を例に)

私は趣味で歴史に関する本をよく読んでいるのですが、そこで気になる記述を見つけました。平家物語によれば、安徳天皇は80代の天皇で8歳の時に八岐大蛇の霊剣である草薙剣を取り返したと書かれているのです。

安徳天皇は数え年で8歳で崩御していることは史実です。しかし安徳天皇は現在では81代ということになっているので、80代というのは誤りのように見えます。この矛盾について、その本の上では特に触れられていませんでした。

多くの人はここで止まってしまう気がするのですが、私はある程度日本史を勉強しているので、天皇の代の数え方は時代によって異なっていたという知識がありました。特に安徳天皇の後の南北朝時代で、この時代は南朝と北朝がそれぞれ正当性を主張して並立したため、そこのカウントが一番混乱しています。それについて少し紹介します。

天皇のカウント

現在の天皇は北朝の子孫のため、基本的には北朝が正当とされてきたのですが、明治時代に南北朝正閏論という論争が起こり、現在では南朝が正当だったとされているので、そこでもカウントが大きく変わっています。現在でも皇居に楠木正成の像がありますが、南朝側だった楠木正成の像が北朝の子孫である現在の皇族が住んでいる皇居にある理由はここにあります。

現在の天皇は126代124人とされていますが、このカウントは北朝の天皇(光厳天皇・光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇)が除かれています。ちなみに現在では旧皇族の皇族復帰案が一部の議員から提案されていますが、現在も存続している旧皇族と皇族はこの崇光天皇の子孫です。現在正当とされている天皇だと祖父に当たる後伏見天皇まで遡る必要があります。

ただ南北朝は安徳天皇よりも後の時代なので安徳天皇の代のカウントには関係ありません。他によく議論に上るのが以下です。

  • 神功皇后
  • 弘文天皇(大友皇子)
  • 淳仁天皇(淡路廃帝)
  • 仲恭天皇(九条廃帝)

それぞれについてなぜ議論になるのか軽く紹介します。

神功皇后は実在が疑問視されている非常に古い時代の人物です。神功皇后は欠史八代(系譜しか存在しないので実在したかが非常に疑問視されている天皇)の最後の天皇の開化天皇の子孫なので皇族の血を引いています。ヤマトタケルの子供である仲哀天皇の妻で、朝鮮半島を攻めて新羅など三国を支配下に置いた(三韓征伐)とされています。

三韓征伐が史実かどうかは今回は議論しませんが、現在の天皇の先祖である応神天皇の母親であり、古事記・日本書紀で非常に目立つ存在であることは間違いがありません。日本書紀では基本的に各天皇毎に章が分かれていますが、神功皇后は神功皇后専用の章が存在します。天皇によっては複数の天皇で一つの章にされているにもかかわらずです。神功皇后以外に天皇ではない章だと初代神武天皇以前の話である「神代 上」と「神代 下」の2つのみです。事実上天皇と同等の扱いがされていると言ってよいでしょう。

日本書紀によれば神功皇后が天皇であったという記述はありませんが、中世では天皇としてカウントされることが多かったようです。

今回紹介する3人の天皇の諡号はすべて明治時代に贈られたものです。そのため弘文天皇という呼び方は一般的ではありません。ここでは大友皇子と呼びます。

大友皇子は天智天皇の息子であり、壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)と戦い敗れました。

天智天皇が亡くなった後にまもなく壬申の乱に突入したため、大友皇子が即位していたのかどうかは諸説あります。即位していたとすれば、大海人皇子は天皇に反逆したということになるので、天武天皇が編纂させた日本書紀ではわざと記述を曖昧にしたという説があり、一定の説得力があります。

実際に明治時代では即位説が有力となり、弘文天皇という諡号が贈られました。しかし現在では非即位説も有力になり、現在でも決着していません。

奈良時代後半の聖武天皇には娘しかおらず、唯一の娘が孝謙天皇として即位することになりました。これにより血統の断絶が確定しました。そこで時の権力者である藤原仲麻呂(恵美押勝)の強い推薦により、天武天皇の孫である淳仁天皇への譲位が実行されました。

しかしその藤原仲麻呂が反乱を起こしたため、反乱に直接関わったわけではありませんでしたが孝謙上皇により廃位にされてしまいます。そのため天皇として認められませんでした。しかも諡号も与えられず、しばらく廃帝とだけ呼ばれました。淡路廃帝という呼び名はその後にもう一人廃帝が現れたので区別するためにつけられた呼称です。

その後に孝謙上皇が重祚をして称徳天皇になります。そのあたりについては以下の記事にも書いたので興味があれば読んでください。

父親の順徳天皇と祖父に当たる後鳥羽上皇が承久の乱で鎌倉幕府との戦争に集中するために、順徳天皇が譲位をしました。それが仲恭天皇です。承久の乱は鎌倉幕府の勝利で終わり、当然仲恭天皇は廃されます。即位後わずか78日で廃され、歴代天皇の中では最も在位期間が短い天皇です。

あまりにも短かったことと、幕府に特に嫌われた順徳天皇の息子ということもあり、こちらも廃帝として諡号を与えられませんでした。

安徳天皇の後の時代の話になるので、今回の議論では直接関係ありませんが、一緒に議論していきます。

中世で天皇はどうカウントされていたのか

今回紹介した4人を天皇としてどうカウントするかは定まっていなかったようです。今回は室町時代の後小松天皇の勅命で編纂された天皇の系図として本朝皇胤紹運録という資料があるので、こちらでどうカウントされているのか見ていきます。

今回原典を確認したかったのですが、なんと京都大学のwebページ上で原典を確認できました。本当にありがとうございます。

結論を言うと、神功皇后・淳仁天皇(淡路廃帝)は天皇としてカウントされており、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇(九条廃帝)は天皇としてカウントされていません

まず大友皇子の即位に関しては江戸時代までほとんど議論されていなかったので論外です。仲恭天皇(九条廃帝)に関しては武家政権に反旗を翻したという経緯があり、時の将軍の足利義満が見ている中で天皇としてカウントするのは憚られたのではないでしょうか。

また後小松天皇は南北朝合一時の天皇であり、北朝側なので前述の通り北朝側の天皇でカウントしています。現在では後小松天皇は100代目とされていますが、本朝皇胤紹運録上では101代目とされています。

本朝皇胤紹運録上のカウント方法が正しいとすれば、神功皇后で+1、大友皇子で-1されるため、天武天皇と順徳天皇の間の天皇は現在のカウントと同一になります。その間である安徳天皇は81代目で変わらないという結論になります。

しかし神功皇后は前述の通り日本書紀でも即位したと記述されていないので、神功皇后をカウントしなければ80代目になり、平家物語の記述は正しいということになります。おそらく平家物語はこのカウントを採用しているのだと思います。

少しおまけの話題です。割と最近でもマヤ暦の暦が途切れるという理由で2012年に人類が滅亡すると主張していた人がいました。それと似たような話で中世には百王説という説が存在しました。

野馬台詩という書物に天皇は百代で終わると予言されているという噂がされたのです。内容自体は割と意味不明でどうとでも解釈できそうな文章で、ノストラダムス感がある資料です。いつの時代も人々はそういう予言が好きなようです。

しかし当時かなり信じられていたようで、特に天皇と対立していた足利義満はこの説を信じていたという話があります。

そもそもなぜ後小松天皇は本朝皇胤紹運録を作らせたのでしょうか? 私の想像ですが、100代で終わるとされていた天皇の系図を作成することで誰が100代目なのかはっきりさせたかったのではないでしょうか?

その本朝皇胤紹運録では父である後円融天皇が100代目ということになっています。そうなると神功皇后を天皇としてカウントした理由は、自分自身を100代目としてしまうと足利義満から百王説を実現されてしまうから。だから自身を101代目とする系図を作ったのではないかと邪推したくなります。

最後に

なんでこんな記事を書いたのかというと、本朝皇胤紹運録に関する記述が非常に不親切な本があったからです(冒頭に紹介した本とは別)。当時の常識として大友皇子が天皇としてカウントされているはずがないのですが、それに関する記述がなく、当時としては議論がありそうな淳仁天皇に関する記述もありませんでした。神功皇后が追加でカウントされているため、曖昧にしても偶然数はあってしまうのですが、非常に不誠実だなと感じました。

そんな状況でもちゃんと原典を確認できれば、何が正しいのかしっかり確認できるということを再認識しました。本当に原典を公開してもらい、ありがとうございました。

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